水処理の基礎:pH調整の理論と実践における課題

工場の排水処理や製造プロセスにおいて、pH(水素イオン指数)の管理は最も基本的かつ重要な項目の一つです。しかし、このpH調整は「酸やアルカリを加えれば良い」という単純なものではなく、多くの技術者がその難しさに直面します。本記事では、なぜpH調整が難しいのか、その理論的背景と実践的な課題について解説します。
pHとは何か? – 「1」の違いが持つ大きな意味
まず、pHの基本的な性質についておさらいしましょう。pHは、溶液中の水素イオン濃度を示す指標であり、0から14の範囲で表されます。pH7が中性、それより小さいと酸性、大きいとアルカリ性となります。
ここで重要なのは、pHが「対数尺度」であるという点です。これは、pHが1違うと、水素イオン濃度は10倍異なることを意味します。
- pH6の溶液は、pH7の溶液に比べて水素イオン濃度が10倍高い(酸性が強い)。
- pH5の溶液は、pH7の溶液に比べて水素イオン濃度が100倍高い。
この対数尺度の性質が、pH調整の難しさの根源にあります。
pH調整が「非線形」である理由 – 中性付近の繊細さ
「アルカリ性の排水を中性にしたい」という場合を考えてみましょう。例えば、pH12の排水を中性のpH7まで下げる作業をイメージしてください。この時、多くの人が陥る誤解は「pHを1下げるのに必要な酸の量は常に同じ」というものです。
しかし、現実は異なります。
- pH12 → pH11 に必要な酸の量
- pH8 → pH7 に必要な酸の量
この2つを比較すると、後者の方が圧倒的に多くの酸を必要とします。
なぜでしょうか。先ほどの対数尺度の話に戻ります。 pHは水素イオン濃度 ([H+]) だけでなく、水酸化物イオン濃度 ([OH−]) とも密接に関係しています。アルカリ性の溶液では水酸化物イオンが支配的であり、これを酸で中和していくことでpHが下がります。
- pH12や11といった強アルカリ領域では、大量に存在する水酸化物イオンを中和するため、比較的少量の酸でもpHはスムーズに下がります。
- しかし、pH8から中性のpH7に近づく領域では、水酸化物イオンの量が急激に減少し、わずかな酸の添加でpHが大きく変動します。まるで、車の運転で高速道路を走行している状態から、急に市街地の狭い道に入るようなものです。少しアクセル(酸の添加)を操作しただけで、景色(pH)が大きく変わってしまうのです。
このため、自動制御で薬品を添加している場合でも、中性付近でpHが行き過ぎてしまい、酸性領域に突入してしまう「オーバーシュート」という現象が頻繁に発生します。
もう一つの隠れた要因「緩衝作用」
さらにpH調整を複雑にするのが、排水中に含まれる「緩衝物質」の存在です。緩衝作用とは、酸やアルカリを加えても、pHの変化を和らげる働きのことを指します。
排水中には、炭酸塩、リン酸塩、アンモニア、有機酸など、様々な緩衝物質が含まれている可能性があります。これらの物質が存在すると、以下のような問題が生じます。
- 計算通りの酸やアルカリを添加しても、目標のpHに到達しない。
- ある特定のpH領域(緩衝域)で、pHがなかなか動かなくなる。
例えば、緩衝作用が強い排水の場合、pH8.5から8.0になかなか下がらなかったのに、緩衝域を抜けた途端に急激にpHが低下し、一気にpH5まで落ちてしまう、といった現象が起こり得ます。これは、日々の生産状況によって排水中の緩衝物質の濃度も変動するため、昨日はうまくいった薬品添加量でも、今日は全くうまくいかない、という事態を招く原因となります。
安定したpH管理を実現するために
このように、pH調整は単純な足し算・引き算ではなく、対数尺度や緩衝作用といった化学的な特性を理解する必要がある、非常に奥深い技術です。安定した運用のためには、連続的なpH計測と、それに連動した精密な薬品注入制御、そして薬品と排水を瞬時に均一混合させるための強力な攪拌が不可欠となります。
もし、お使いの排水処理設備でpHが安定しない、薬品の消費量が多い、といった課題をお持ちの場合は、自己判断で設定を変更する前に、専門の業者に相談することをお勧めします。
専門業者が周りにいない時や、第三者の意見を聞きたいときは、工場のセカンドオピニオンであるウォーターデジタル社にぜひお問い合わせください。